
11月23日(祝日)に予定しておりました紫雲会総会ですが、緊急事態宣言が解除されたものの未だ予断を許さない状況であることを勘案しまして、飲食を伴う会合は避けるべきというご意見を尊重し、大変残念ではありますが開催の中止を決定致しました。
楽しみにされていた皆様、申し訳ございません。
来年こそ穏やかな社会が戻り、同窓生の皆様と再会できます事を心より祈念いたしております。
令和3年9月
東京2020オリ・パラボランティア体験記
北條 勇
4年前に東京2020オリンピック・パラリンピックのボランティアに応募し、何回かの関門をクリアして採用が決まりましたが、コロナ感染拡大が広がり大会が1年延期となりました。
その間、開催が出来るのか非常に不安でした。
大会開催が賛否両論する中でオリンピック開催が決定したことは、ボランティアの私より開催を待ち望んでいた世界中のアスリート達が一番喜んだことと思います。
しかし、開催間際になって無観客開催となり、一部予定していたボランティアの活動が無くなり、その中に私も含まれていました、その連絡が入った時には大袈裟ですが、頭の中が真っ白状態でした。
勿論、購入することが難しかった観戦チケットを手にして競技場で観戦を楽しみにしていた人々だと思いますし、満席の競技場で応援してくれると思っていたアスリート達だったでしょう。
でも、その後すぐ私に別の活動場所を提案され、そこは東京体育館での卓球競技場所の試合前のウオーミングアップエリアでした。
やっとオリンピックのボランティア活動が出来ると喜びました。
7月25日が活動初日でしたが、19日から公式練習が始まっており、既に活動をしているボランティアが多くいて、活動要領を教えてもらいながらのスタートでした。
ただ、初日は混合ダブルス競技があり、伊藤美誠・水谷隼組を始め多くの日本選手の練習を目の当たりにし、試合前の練習前とは思えない激しいのに驚きと感銘を受けました。
そして、準々決勝は伊藤・水谷ペアがドイツと3対3で迎えた最終ゲームも途中7ポイントをリードされ、これで負けかと誰しも思われたが、6−10でドイツのマッチポイントから追い上げて7回ものマッチポイントをしのいで4対3で勝利した試合は衝撃的でしたし、その試合をウオーミングアップ会場で練習中の各国の選手やボランティア達がモニター画面の前に釘付けとなっていました。
本当に卓球競技会場でボランティア活動が出来て良かったと思いました。
ウオーミングアップ会場は卓球台が12台設置されており、当日の試合ある選手が練習しますが、各国に練習台と練習時間が決められており、それを管理したり、コロナ禍の中ですので練習後の台の消毒を朝8時から21時まで2交代でのボランティア活動ですが、選手たちは練習前後にリラックスするため、飲み物・軽食が準備されており、サンドイッチやカップ麺を自由に手にして談笑しているチームや、試合前の緊張感が感じられるチームもありました。
選手達との交流や写真撮影は禁止されており、オリンピックではほとんどありませんでしたが、混合ダブルスで優勝した翌朝の練習に来た伊藤美誠選手にお祝いを伝えると嬉しそうに返事が返って来ました。
別の活動個所からシフトされた私は、オリンピックでの活動は当初の計画から半減の5日間でしたが、卓球競技会場の責任者からパラリンピックのボランティア活動をしないかと話があり、活動予定が無かったパラリンピックのボランティアを12日間活動することになり、それも同じ卓球競技会場ですることになり、望外の喜びとなりました。
活動中に香川県出身の車いす2の皆見信博選手に会い、話をすることが有りました。
残念ながら一時リーグで敗退しました。
そして、日本は銅メダル1個でパラリンピック卓球競技は終えました。
しかし、A・Bのシフトによっては早朝に自宅を出掛けたり、夜遅く帰宅となるなどパラリンピック大会が終わる頃には疲れを感じましたが、これも満足できる疲労感でした。
オリンピックでは感じられなかったが、パラリンピックの選手達が不自由な身体で競技に臨み、好結果を達成することを目指しているが非常に明るいと選手たちが多いと感じました、私だけでなく多くのボランティアが言っていました。
各国の選手とボランティアがピンバッチの交換をする風景が多く見られましたし、私も数個のピンバッチを頂きました。
パラリンピックの選手を見て、五体満足な自分はまだまだ頑張って行かなければと再認識をしました。
私がスポーツボランティア活動を始めたのは、2011年の東京マラソンが最初で、これも前年の東京マラソンに知人が出場していたのを応援に行き、ボランティアの存在を知り、
活動中のボランティアにどうすれば活動が出来るのか教えてもらい、翌年応募して採用され、それから10年になりますし、その後始まった横浜マラソンのボランティアも始めました。
ランナーを応援することでランナーから有難う等の感謝の言葉が返ってくると、ボランティア活動をやって達成感を得られますし、大会の成功を僅かの力ですが応援出来る喜びをこれからも続けて行きたいと改めて思っています。
予定されておりました 10月9日(土)東京支部総会と10月24日(日)の大阪支部総会ですが、コロナの感染状況を考慮し、中止となりました。
香川県下におけるコロナ感染拡大状況を勘案し、理事・評議員会の開催を中止と致します。
1.日時 令和3年8月28日(土)15:00〜高松商業高校会議室
2.議題
(1)令和3年度紫雲会総会について
(2)120周年記念事業について(報告)
(3)その他
21日(水)に今年度幹事団となるH9卒までの役員に案内はがき送付させて頂きます。新型コロナウイルス感染状況により理事・評議員会も総会(11月23日)も中止になる可能性はありますが、実施する方向で考えております。
香川県在住の方
県外在住の方へ
人生を『私の履歴書』から学ぶby吉田勝昭・高松商OB 吉田勝昭氏は、高松商から関西学院大を経て日本ケミファ(株)へ1966(昭和41)年に入社し、常務取締役、取締専務執行役員を務めている。2017(平成29)年8月に、本書を上梓しているが、5年前に書いた『ビジネスは『私の履歴書』が教えてくれた』(2012年中央公論事業出版)が、『私の履歴書』と付き合うきっかけとなっている。
『私の履歴書』は、日本経済新聞最終面を飾るコラム欄のタイトルです。今は、サハ・グループ会長のブンヤシット・チョキワタナー氏が掲載されています。吉田勝昭先輩は、この『私の履歴書』を読んで経営のヒント、人生のヒントにされているそうだ。しかしそのコラムを、掲載1号の鈴木茂三郎(社会党委員長)の1956(昭和31)年3月1日から、810代ジョー・プライス(美術品蒐集家)2017(平成29)年まで、65(今日まで)年に及ぶ原稿をネタにして、原稿をまとめている。
本来なら上梓された順に読むべきだと思いますが、吉田勝昭氏から贈呈を受けたモノから読んでいます。紫雲会東京支部総会で、本人から頂戴しました。もう3年も前のことです。人生には、三大不幸があると言われています。それは病気、貧乏、煩悶の3つです。人間誰しも、この不幸は避けて人生を過ごしたいモノです。しかしどんなに逃げようとしてもこの3つには、人生のどこからで捕まります。
5年前(この本が上梓された2017年から)に、経済人を中心に扱った拙著『ビジネスは「私の履歴書」が教えてくれる』はビジネス書として、主に仕事や経営についてヒントになるモノを抽出して書いたものでした。現役を引退するとビジネスにプラスになるヒントよりも、人生にプラスになる『生き方』の記載に、興味が沸いてきました。そうすると経済人より芸術家やアスリート、芸能人の生き方により魅力を感じ、もう一度昭和31年3月から、『私の履歴書』に登場した全ての人物について読み直したのでした。
そうすると、『人生にプラスになる生き方』のヒントが、あるわあるわ。演説のプロと評された政治家の若い日のコンプレックス、人気女優の薬物中毒、世界的な演出家の挫折、偉大な芸術家が才能が無いと悩んだ時期、売れない作曲家の悶々とした日々、偉大なアスリートが下積み時代に猛特訓を受けた苦しみ、強い同志の絆で事実婚に耐える芸術家などについて読むほどに、人それぞれに苦悩があり、それを克服して新しい境地を開いた先達の、見事な生き方に共鳴し感動したのでした。
やはり、いろいろな苦労の雨が降らないと美しい虹が出ないのだなあと実感したのでした。この『私の履歴書』には、それぞれの分野の優れた人たちの人生の縮図が書かれていますから、これを読むことで自分の人生観が深まり、拡がり、生き方のヒントを数多く得ることになります。
そして3冊目の『私の履歴書61年の知恵』が、3部作の最後として2018年5月に上梓されています。登場した819人が、専門家でないと知り得ない情報や知識、技能、ノウハウなどをお持ちです。これらの貴重な情報や記述、種々の分野をどうしても残しておきたいと思いました。明治・大正・昭和は、どんどん遠くなっていきます。戦後約70年、戦争を知らない世代は、日本人の80%を超えています。
平成30年の今日、これまでの61年間の記録をまとめておくことは私に出来るささやかな役割だと思っているのです。このコラムの愛読者に、少しでも役立って頂ければうれしい。また吉田勝昭氏が『日経産業新聞』に、2012年11月から2013年2月まで4ヶ月間にわたり連載したコラム、『名経営者に学ぶ仕事術』を紹介して閉めています。サービス精神旺盛な、母校の偉大な先輩のお一人であります。先輩遅くなりました。申し訳ありません。