3回目の今日は、山口冨士雄先輩の登場です。1960年(昭和35年)の選抜大会。米子東(鳥取)と迎えた優勝戦。1-1の同点で迎えた9回裏、先頭打者として打席に入った山口冨士雄先輩は、カウント1-2と追い込まれながら内角寄りの甘い直球を夢中で振り抜き、左翼ラッキーゾーンへのホームランを打ちました。
この時私は、8歳の小学生でした。近所の八百屋さんにあった白黒テレビを取り囲み、大勢で観ていて、サヨナラゲームを確認して、喜び勇んで自宅へ帰ったのを今でもハッキリと覚えています。八百屋さんも高商卒、父親も高商でしたが、後に卒業名簿を見て父茂が卒業していないことを知りました。ショックでした。
高商の全国優勝は、この半世紀前のこの時から昨年の神宮野球大会までなかったのです。過去に春の選抜2回、夏の選手権2回、国体1回優勝と華々しい活躍をした高商ですが、この30-40年はまずまずでした。その間に、柔道剣道、サッカーとかハンドボール、はたまたソフトボール、ヨットが活躍しています。
また文化部も、ブラスバンド、ソロバン、ワープロを先頭に、10年前頃から「書道パフォーマンス」等、また進学も香川大学医学部の部長先生が高商OBというレベルにあります。文武両道の輝かしい活躍をするわが後輩です。
過去の野球人としては1927年卒の宮武三郎氏から、1928年卒水原茂氏、途中から愛知商へ転校したが牧野茂氏、1959年阪急黄金時代の正捕手として活躍した岡村浩二氏、1986年卒大森剛氏など多くの野球人を輩出した高商でした。
また私の在席した昭和43-46年(1968年)は、大北敏博(元巨人)細川安雄(元阪急)の大型バッテリーで、甲子園へ3度出場し、3年の夏はベスト8まで勝ち進んだと記憶しています。隣の愛媛県も松山商が、大活躍でした。この2年前(昭和44)年に、三沢―松山商の伝説の一戦があったと記憶しています。
余談ですがこの松山商の選手が大量に明治大学野球部へ入り、私は東京六大学野球も楽しませてもらいました。三沢の太田投手はプロで活躍し、松山商の井上投手は明大卒後朝日新聞社へ入社。高校大学野球にまつわる話題は、豊富にあります。幸せな、日本の高度経済成長とともに歩めた、野球世代の私です。
その山口冨士雄先輩は、現在「高商倶楽部」の副代表をされています。良く高商はOBがうるさく口出しすると聞きますが、私が知る限りで、山口冨士雄先輩がその1人だとは聞いたことがありません。地元の企業で勤務されながら、後輩の面倒を実に良く見ています。
呑みに行っても山口冨士雄先輩が、全員の勘定を持ちます。私も何度か誘われるにつけて、「自分も」と少しだけ負担するようにしました。球場へ足を運び、試合を観るときは、出来る限り山口冨士雄先輩の近くで観ます。何もおっしゃらないのですが、訊くと答えてくれます。高商バイブルの1人、山口冨士雄先輩です。
ホームページ委員会 委員長 松野誠寛
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昨日(1月24日(日))から、朝日新聞香川県版に高商野球部の記事が連載されています。本日はその2回目で、「二つの敗戦が転機に」と題して、昨日と同じ加藤あず佐記者の署名記事です。私もこの切り口には、敬意を表します。試合を見ていた者としては、その通りだと声を大にしたい。
加藤記者が取り上げる敗戦の一つは、2015年の夏の大会で高商は2年生6人が先発する若い布陣で準々決勝まで勝ち上がり、準決勝戦で丸亀城西に6-9で敗れて、甲子園出場の夢が潰えた。全試合に先発して大活躍の浦大揮君が、打ち込まれた。やはり夏は、ピッチャー1人では勝てない。そう実感した瞬間でした。
次の敗戦は、昨年2015年9月3年生が卒部し、新たに結成されたチームで秋季県大会を危なげなく勝ち上がった。くじ運も良かったのか、コールドゲームには本塁打も飛び出し、私もこれは良い線まで行くぞと力が入った。そして迎えた決勝の小豆島戦。戦う前から高商「優勝」の二文字が、頭の中によぎる。
しかし結果は、1-2で延長12回、小豆島に敗れた。夏の選手権香川大会ではコールド勝ちした小豆島に敗れた。まさかの敗戦でした。打線も好調で、それだけ大物狙いのバッティングを心配していたのが、まさに的中してしまった。狙うはセンター返しの単打なのに、外野へフライを連発。
この試合浦大揮投手は、15奪三振を奪っていた。普通に単打を狙っていたら、3〜5点は獲れていただろうに。「つなぐ高商の野球が出来ていない」、誰しもがそう思った。ここまでホームランも数本飛び出していたし、1人じゃなくて、3〜4人が打っていた。大振りになってしまった。
応援席で見ていると、ホームランやヒットは2桁程度出るが、バントを失敗するし、キャッチャーのパスボールも目立った。一口に言ったら「雑な野球」をしていた。小豆島に負けるとは思っていなかったが、試合後は負けるべして負けたと思いました。選手ばかりでなく、応援する側にも心の隙があった。
大相撲と高校野球を比べると失礼だが、琴奨菊も13日豊ノ島に負けて良かったのかも知れない。それでも賜杯を手にしたのは、立派な努力が実った結果です。彼のインタビューを聞いていると、決して優勝が附録ではないことが伝わります。恐らく、次か次の次ぎの場所には横綱まで行くでしょう。
加藤あず佐記者が書いているように、特にあの小豆島戦が選手の意識を変革させたと私も思っています。昨日の小欄にも書きましたが、四国地区大会はともかくとして明治神宮大会は、「幸運」が味方してくれたと思うのですが、一生懸命やっている子らへの神の贈り物だと私は思っています。
ホームページ委員会 委員長 松野 誠寛
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朝日新聞高松総局休波希記者がやって来た
直接の来社目的は、昨年11月15〜17日の明治神宮大会の球場撮影の写真が欲しいというものでした。まわりまわって、私のところまでやってきました。写真と言っても私のカメラは馬鹿チョンカメラで、記者さんが使うような高性能カメラではないのです。
そんなカメラで撮った写真が使えるのかと思うのだが、それでもわざわざやって来た休波希(やすなみのぞむ)記者の熱意に負けて、全部の写真を見せて、自由に持って帰って自由に使って良いと許可を出した。28日の木曜日の香川県版に、掲載されると言う。
なに、では高松商野球部の記事が朝日新聞香川版に連載されるの?「はい今日(24日)から第1回です」。まてよ明治神宮大会の後の全国大会は、「選抜高校野球大会だよな。選抜大会は毎日新聞社主催ではないの」。私は、朝日新聞の休波記者に、思わず尋ねた。
私も知らなかったのですが、春の大会と夏の大会は「相互乗り入れ」しているそうで、選抜高校野球大会に朝日新聞社は協賛(後援だったか)している。それで先の神宮大会でも、優勝戦の敦賀気比戦では、高松商の取材に記者を派遣したと。確かに記者はいたし、下の写真はその時のものだ。
理由はともかくとして、今日からシリーズで高商野球部が記事になっていると聞いて、朝日新聞を買い求めてコンビニへ走りました。半5段の扱いで、写真付きで大きく紹介されています。記事のタイトルは、「軌跡・高商伝統と変革」考える野球で新生となっています。
記事を読むと、今の高商の活躍は長尾健司監督の就任にあると言う、当時の細松英正(62)香川県教育長の言葉が全てを象徴している。「OB外異例の監督人事きっかけ」と、新聞の活字も踊る。これには前横山賢治校長も、深く関係している。インサイダー情報になるから詳細は書けないが、好循環の歯車が回り始めた。
確かに昔のやり方を踏襲していただけでは、今の「強い高商」はなかっただろう。その前に苦労して完成させた、「雨天練習場」のバッティングゲージも大いに貢献をしている。今の高商チームは、どこからでも点が取れる。昔の、3番4番大砲頼りのバッティングとは変わった。
1番の安西翼君から、9番荒内俊輔君・大熊達也君・吉田敬瑚君どこからもヒットが飛び出す。盗塁は、ノーサインでも走る。考える野球をしようとして、選手はもがきながら、成長している。確かに近くで見ていた私も、神宮大会は「幸運」が味方してくれたと思うのですが、一生懸命やっている子らへの神の贈り物か。
新生高商が産まれて今、義務教育課程が始まったようです。私がいた頃(野球部ではないが)のような、先輩から後輩への「愛の尻バット」などはもういらない。夏の練習でも、水を飲むのは禁止でした。今考えると、あり得ない常識でした。肩を冷やすからと、水泳も禁止して、どの指導者もあまり考えていなかった。
このように考えると、昔と真逆をやれば強い高商になるのか。否、私はそうは思わない。この点は、長尾健司監督も同じだ。野球馬鹿を作っても仕方ないことで、「野球を通じて人間の道を学んでもらいたい」。良かったこれがなくては、3〜5年程度の高商天下で終わるだろう。
ホームページ委員会 委員長 松野 誠寛
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四国新聞の読者が投票で選ぶ「2015年県内10大ニュース」の1位に「高松商、明治神宮野球大会で県勢初優勝」が選ばれました!
高商野球部の神宮での活躍は、香川県民の皆様にも大きな勇気と元気を与えてくれたようです。
詳しくは 四国新聞サイトにてご覧ください。 >>>こちら
高商快進撃の理由の一つに高橋野球塾があった
私の手元に来た、1通のメールをまず紹介します。内容は9月28日(月)のBLOGです。アドレスも、下に貼っています。何とも頼もしい、高橋浩司塾長の存在。
こんばんは(*^^*) 野球塾の高橋です。 秋季四国地区高等学校野球香川大会も、3位決定戦と決勝戦だけとなりました。 野球塾の卒業生も、頑張っています(^^) 今大会、2ホーマーの植田くん、キャプテンでチームを引っ張る米麦くん!
※野球塾硬式ACの時の画像です↓
圭造、響介ベストを尽くして頑張れ ♪───O(≧∇≦)O────♪
http://takahashi-bs.jp/#access
聞くと高橋浩司塾長は、プロ野球引退後津田町でカンパチの養殖をしながら野球少年の指導を始めたそうです。その頃の子供に、白鳥中学校出身者の植田響介君や米麦圭造君、また2番手投手の横投げ右腕の多田宗太郎君、そして植田兄弟の弟植田理久都君らがいたようです。
こう考えると、高松商快進撃には高橋野球塾の存在がおのずとクローズアップされてくる。高松商長尾健司監督の言う「古豪復活」のためにも、香川野球のレベルアップが必要だ。元プロ野球選手の松家さんは、香川中央でコーチをされている。
高橋野球塾はホームページにもあるように、拠点を高松市の六条町に移した。高橋浩司塾長は、小豆島への指導にも出かけているとのこと。私は高橋浩司塾長にお目にかかったこともないが、身近な関係者からの情報提供です。