軌跡高商伝統と変革 第4弾 2016/1/27

投稿日時 2016-01-28 14:23:07 | カテゴリ: お知らせ

昨日の第3弾から記者が、休波希(やすなみのぞむ)記者に替わり、昨日が山口冨士雄先輩で、本日第4弾で若宮誠一元高商野球部監督が登場しました。私の知る限り、高商野球部の歴史上この2人の名前と顔を知らない人はいないと思います。いや香川の野球の顔として、その後も長く語り継がれています。



明治42年(1909)に誕生した高商野球部は、107年の歴史を誇っていますが、水原茂氏や西村正夫氏や牧野茂氏などは、戦前の高商野球を支えた人物です。選抜大会第1回優勝に代表されるように、戦前の限られた数の野球部間での優勝です。特に、西高東低のチーム差があった頃の結果です。



そんな中、先の大戦で解散になっていた高商野球部の再建に白羽の矢が立ったのが、1942年に高松商を卒業した若宮誠一(1926-2009)さんでした。二十歳過ぎの、若い監督だったと聞きました。高商を卒業後1度就職をして、教員として県職員になったと聞いています。



余談ですが、若宮誠一元高商野球部監督の御自宅は、仏生山駅徒歩10分の団地にあります。私と駅から自宅への方向は違いますが、同心円上に自宅があります。長く野球部部長をされた矢口稔先生も、同じ団地の中に居を構えていました。夜も、作戦会議だったのか。



高松商は、これまで春の選抜に25回出場し2回の優勝。夏の選手権に、19回出場して2回の優勝。その中で若宮誠一監督が率いて、13回の甲子園を経験しています。春に強い高松商は、若宮誠一監督で春9回夏4回の出場です。



ベスト8以上に勝ち進んだのが6回。58年の国体優勝、60年春の選抜優勝、61年の選抜準優勝も若宮監督が率いたチームの実績です。体育館前には、顕彰石もあります。83年に体調不良で監督の座を退いたが、晩年高松商近くのマンションを借りて、グランドを注視していたというのは有名な話しです。



さらに若宮監督の指導した子どもらが、監督として母校高商監督として続きました。若宮監督は自ら3度監督に就任しましたが、本日27日朝日新聞にあった「戦後高松商を甲子園へ導いた監督」順にある、「前川昌三監督」「岡田紀明監督」「久保政道監督」「宮武学監督」のいずれも若宮監督の教え子です。



私の入学した1968年(昭和43年戊申つちのえさる)当時の監督は、岡田紀明監督でしたが、夏の甲子園に出場しています。もちろん私も応援に行きました。次の久保政道監督も、若宮教え子の1人ですが、春4回、夏6回の甲子園出場を果たし大いに期待が広がりましたが、結果的に若くして他界されました。



その後若宮誠一氏が、3度目の監督に復帰しています。記事の副題も、「守って守って守る甲子園13回」とあります。高商野球は今も変わりませんが、無死出塁、あるいは一死出塁でも次は必ずバントです。特に今の長尾健司監督は、打者が3番米麦圭造君(よねばくけいぞう)でも、4番植田響介君でもバントです。



「守って、守って、守る。打撃練習は1日に十数本で、あとはずっと守備だった」と2度の甲子園を経験した岡田紀明監督は語っています。こんな伝統の戦い方の中で、2年半前「雨天練習場」が、完成しました。4,180万円の工事費を、高商が寄附等で集めました。もちろん私も、山口冨士雄先輩程度しました。



守って、守って、守る伝統の練習は、グランド全面が使える週半分で取組、プラスバッティングマシンで打ち込みました。これが、若宮誠一元高商野球部監督の時代と違うところです。バントで送り、2死2・3塁では、冗談交じりに「ホールに当たれ」が作戦でした。今は単打でつなぎ、大量点をたたき出しています。



しかし戦う相手は、近代兵器を用いて全国から有望選手を底引き網でえぐり獲るような作戦の私立高校チームです。聞いたことのないような校名が、甲子園記事に踊ります。全国各地の公立高校の名前は、残念ながら消え去りました。同時に、大阪PL高校のような私立さえ、古豪は休火山化しています。



記事タイトルのように、「伝統と変革」が上手く機能し始めた古豪高商、明後日の選抜出場校の発表が待たれます。甲子園出場を熱望されて彼岸へ渡った若宮誠一元監督の喜ぶ顔が、浮かびます。

 


ホームページ委員会 委員長 松野誠寛



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