軌跡高商伝統と変革 第3弾 「サヨナラ弾で選抜V」

投稿日時 2016-01-27 12:39:29 | カテゴリ: お知らせ

3回目の今日は、山口冨士雄先輩の登場です。1960年(昭和35年)の選抜大会。米子東(鳥取)と迎えた優勝戦。1-1の同点で迎えた9回裏、先頭打者として打席に入った山口冨士雄先輩は、カウント1-2と追い込まれながら内角寄りの甘い直球を夢中で振り抜き、左翼ラッキーゾーンへのホームランを打ちました。



この時私は、8歳の小学生でした。近所の八百屋さんにあった白黒テレビを取り囲み、大勢で観ていて、サヨナラゲームを確認して、喜び勇んで自宅へ帰ったのを今でもハッキリと覚えています。八百屋さんも高商卒、父親も高商でしたが、後に卒業名簿を見て父茂が卒業していないことを知りました。ショックでした。



高商の全国優勝は、この半世紀前のこの時から昨年の神宮野球大会までなかったのです。過去に春の選抜2回、夏の選手権2回、国体1回優勝と華々しい活躍をした高商ですが、この30-40年はまずまずでした。その間に、柔道剣道、サッカーとかハンドボール、はたまたソフトボール、ヨットが活躍しています。



また文化部も、ブラスバンド、ソロバン、ワープロを先頭に、10年前頃から「書道パフォーマンス」等、また進学も香川大学医学部の部長先生が高商OBというレベルにあります。文武両道の輝かしい活躍をするわが後輩です。



過去の野球人としては1927年卒の宮武三郎氏から、1928年卒水原茂氏、途中から愛知商へ転校したが牧野茂氏、1959年阪急黄金時代の正捕手として活躍した岡村浩二氏、1986年卒大森剛氏など多くの野球人を輩出した高商でした。



また私の在席した昭和43-46年(1968年)は、大北敏博(元巨人)細川安雄(元阪急)の大型バッテリーで、甲子園へ3度出場し、3年の夏はベスト8まで勝ち進んだと記憶しています。隣の愛媛県も松山商が、大活躍でした。この2年前(昭和44)年に、三沢―松山商の伝説の一戦があったと記憶しています。



余談ですがこの松山商の選手が大量に明治大学野球部へ入り、私は東京六大学野球も楽しませてもらいました。三沢の太田投手はプロで活躍し、松山商の井上投手は明大卒後朝日新聞社へ入社。高校大学野球にまつわる話題は、豊富にあります。幸せな、日本の高度経済成長とともに歩めた、野球世代の私です。



その山口冨士雄先輩は、現在「高商倶楽部」の副代表をされています。良く高商はOBがうるさく口出しすると聞きますが、私が知る限りで、山口冨士雄先輩がその1人だとは聞いたことがありません。地元の企業で勤務されながら、後輩の面倒を実に良く見ています。



呑みに行っても山口冨士雄先輩が、全員の勘定を持ちます。私も何度か誘われるにつけて、「自分も」と少しだけ負担するようにしました。球場へ足を運び、試合を観るときは、出来る限り山口冨士雄先輩の近くで観ます。何もおっしゃらないのですが、訊くと答えてくれます。高商バイブルの1人、山口冨士雄先輩です。


ホームページ委員会 委員長 松野誠寛



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